「表現芸術家ピアニストの生き様」掲載中

 和歌山での名門高校桐蔭高等学校から東京藝術大学を目指すにあたって、恐らく無理だろうといわれながら、むしろそんな事を言われたがゆえにか、なにくそ、と反骨心を抱き、そのためのレッスンを当時わが国ピアノ界重鎮の一人、井口秋子東京大学教授から受けることになり、東京に行き来していたとはいえ、とんぼ返りの通いで、その文化現況を味わうことなどなかった昭子。
 新幹線のなかった当時の事、和歌山から東京は遠く、車内通路に新聞をひき、仮眠をとる事もあった、という。その難苦を頑張りで乗り越えての芸大入学。
 嬉しさとともに、反面、居住についての新たな困難はあったが、恵まれた文化環境に浸れる喜び、昭子は味わうのだった。彼女がピアニストという音楽家人生を目指すにあたって、大きな刺激・カルチャーショックを受けることになったのも、東京という大都市ならではの文化的環境あってのこと。
 自分の下宿先から東京文化会館も近く、入学初年度最後の月、なんと自分より1歳年下、中村紘子のピアノリサイタルが行われる1961年12月9日、プログラムも立派なもので…
興味深深、昭子は聴き逃してはならない、と聴衆の一人となって出向くことにするのだった。
 最後の授業、音楽史が終わり、片づけを済ませると、いつもなら、まずはピアノ練習室へ向かう彼女だったが、今日は急ぎ下宿へと向かう。 開演までには時間があるしかといって自宅でのピアノ練習にのめり込んでは間に合わなると大変。昭子は早めの夕食を取り、会場開演まで徒歩で行く時間を見計らう。一人っ子で育ったとはいえ、両親は教育者、昭子自身も私生活へのけじめはきちっとつけられるよう、育てられていて、ひとり東京での下宿生活も滞りなくこなしていた。将来ピアニストになろう、なれる能力の持ち主、当然といえば当然であった。

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