10.イエル・メトードローズ
この当時の事を振り返り杉谷昭子女史が言うに、 音が出て、音階があってその幅は広く、和音が出せる。 生まれつき音楽好きだった自身にとって、オルガンは最高のオモチャであり、 行き届いてはいなかったとは言え、母との長い間の音遊び、ピアニストとしての表現の自由さ、 豊かさを身に付けるにあたって、無くてはならなかった源泉期、と述壊する。 そうであっただけに、と言えるだろうか、この当時日本のピアノ教育の主流に使われていた教材、 バイエル・メトードローズ。 昭子のために渡された教材もそうだった訳だが、彼女にとっては実につまらない教材。 そのつまらなさは、本来ピアノという楽器は弾鍵による、えも言われない微妙な動き、 つまり視覚にはとても捉えられない心の動きさえ指先から伝達され反映される音色によって 音表現が出来る。その音楽をするに重要なことの教えがこの教材からは読み取れない。 つまりこの教材はピアノ音楽を学ぶ為というよりも、弾くにあたっての指の動き、分離、 フォルテ(f)、ピアノ(P)、を出す為の筋肉のトレーニング、 その為に音符を鍵盤に移し変える単なる記号と化し、全てが無駄とはいえないまでも、 費やす時間とその成果にはあまりにもの隔たりがありすぎる。現在の杉谷昭子女史はそう捉えている。 頑張り屋で現実がわからなかった昭子は、 そうであっただけに一時も早くこの教材を仕上げ先に進む事に意欲を燃やす。 教材を見るまでその事の分らなかった昭子は帰宅後まずはその楽譜を母に求めた。 「おかあさーん、もらった本、はやく弾いてみたいん。昭子に見せて」 「そうね、着替え終わったら、……。昭子、あんたも早く着替えんと」 「わかったお母さん」静子の指図に素直に応え、 オルガンの置かれている部屋に着替え置いた普段着、見当たらないことに 昭子は祖母の居そうな方へ向かって大声で叫んだ。 「おばーちゃーん、昭子が置いていた着替え、知らーん」 ざったに掛けられた衣紋掛け。部屋の隅に積み置かれた物にも目を向ける。 「帰って来たーん」裏のほうから祖母の声がし、 積み重ねられた服や着物の中から選り探そうとしているところにその祖母がやってきた。 「お帰り」 レッスンの為の挨拶参りを気にしていたらしく 「先生、どうじゃったん?」...。 手さぐりしながら、昭子は「やさしそうでええ人、私に先生のピアノ弾かせてくれたん」...。 「真っ黒で大きくて平らなピアノ、私初めて見たん。グランドピアノって言うんて」 「弾かせてもらったとき、家のオルガンと全然違ってたん」 レッスンを受けることによって、もっと、もっと上手になれる、そう思い込んでいる昭子。 先生から母に渡された教材を、一時も早く音にしてみたい、そんな気にかられている彼女だった。 「おばあちゃん、話は後にして私の服どこに直したん」 「確か、そこに掛けたはずなんやけど」 顔の素振りで、よく探してごらん。とばかり、……。 昭子は掛けられた着物や洋服を念入りに手探りし「あ、あった」とみつけた服を素早く着替え、 オルガンのある部屋へと戻り、楽譜を開く。 [su_button url="https://www.matsunaga-piano.co.jp/?page_id=583" style="bubbles" background="#fefbdf" color="#000000" size="5" center="yes" text_shadow="0px 0px 0px #000000"]【表現芸術家ピアニストの生き様】トップへ戻る[/su_button]
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