3.1943年(2)
祖母はハッと頭を持ち上げ、立ち上がり急いで玄関へと向かった。 「いらっしゃいませ。お医者様でいらっしゃいますよね」 「ええ、そうですが、途中軍隊とはちあわせ、少し遅れてますかね」 「お待ちしておりました。さっ、お上がり下さいませ」 速やかに産室に招き入れる。 彼は状態を把握し、祖母に言う。「難しそうですね……」と。しかし全く動揺する様子はない。むし ろ泰然として言うのだった。「引き出さないと無理でしょう……」 投げかけられ産婆は言う。「そうですね、見てるほうが辛くなります。一時も早く産ましてあげた い」……。 二人の会話が済むと医師はすぐさまかばんの中から器具を取り出し、産婆は、たらいのお湯加 減やタオルなどを整え万端の準備を終える。 医師の来駕がもう5分も遅れていれば自分と母の命はどうなっていたか、かん子分娩によるき わどい難産であった。 日中戦争の頃からくすぶり始め、真珠湾攻撃によって決定打となった日本国の第二次世界大 戦への参戦。 奇襲攻撃による戦勝。その後、連合国軍イギリス東洋艦隊とマレーシア沖での対戦。大きな打 撃を与え、イギリス・オランダなどの植民地支配下にあった東南アジアから南太平洋にかけ広大 な地域を制圧。日本国民は緒戦の勝利に熱狂する。 しかし、その緒戦の勝利はヨーロッパでの宣戦に連合国軍、特にアメリカが枢軸国であるドイツ を封じ込めるため、備えが手薄になっていたことによる。真に国力・軍需力による日本の勝利とい えるものではなかった。 1942年(昭和17年)6月、そのことを示す戦いとして日米の海軍機動部隊同士が中部太平洋 ミッドウェー島沖で戦い(ミッドウェー海戦)、日本は大敗北を舐む。これを転機にこの年の後半か らアメリカの対日反抗作戦が本格化し、戦局は大きく転換し日本は苦戦に突入することになる。 その翌年、国状の逼迫情勢にある中、杉谷昭子女史は産声をあげ、東条内閣は事態の立てな おしに大東亜会議を開く。しかし、東条内閣にとってのその会議の目的は表向き「大東亜共栄圏」 の結束、欧米列強の植民地支配からアジアを解放、という美名をかかげながら、その実、戦争遂 行のための資材・労働力調達を目指すものであり、会議参加国、タイ・ビルマ・インド・フィリピンな どから反発を得るだけのものになる。 アメリカの反撃は強力で、1944年(昭和19年)7月、マリアナ諸島のサイパン島が陥落し、絶 対国防圏の一角が崩壊する。つづいて、8月にはテニアンの戦いによってテニアン島が、グアム の戦によってグアム島が連合国軍に占領された。 このことによって、各島の基地から米軍B29爆撃機が直接日本本土に飛来し、本土空襲は激 化する。 東京への無差別爆撃。引き続き川崎、横浜、名古屋、大阪へと広がってゆく。市街地は焼きつく され、人々は恐怖のどん底に陥る。そしてその爆撃は地方都市へと移ってゆき、和歌山市も昭和 20年1月9日の空襲を機に、終戦の前日までに十数回の爆撃を受ける。 [su_button url="https://www.matsunaga-piano.co.jp/?page_id=583" style="bubbles" background="#fefbdf" color="#000000" size="5" center="yes" text_shadow="0px 0px 0px #000000"]【表現芸術家ピアニストの生き様】トップへ戻る[/su_button]
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